扉に鍵がかかる音を間近に聞いて、私は徐々に知覚を取り戻していった。
 私は柔らかい生地の上に横たわっている。意識が霞んでいた。今何が起きているのか全く分からない。
 現状の情報を求めて無意識に上体を起こそうとしたが、身体が持ち上がらなかった。私の四肢は尋常じゃない力によって押さえつけられていて、身動き一つ取れない状態になっている。
 目を開くと、良く見知った頭に触覚を持つ少女の形をした存在が、私の真上に被さり、華奢な手で私の両腕を掴み、しなやかな膝で私の足を挟み、金色の糸のような髪が乱れるのを直しもせずに、こちらを見下ろしている。
 私は驚いてただ一言、シルキィ、とその名を呼び掛けた。声が掠れた。どうしたのか問おうと思ったが、続きの言葉が出て来なかった。
 いつも穏やかで優しげな笑顔を浮かべている彼女が、今は笑みなど欠片もなく、真剣そのものの表情で、ほとんど思い詰めるような眼差しで、私を見つめている。
「お願い……逃げないで」
 シルキィは良く響く鈴の音のような高い声に、まるで情感を込めずに言った。揺らめいた瞳には、微かな迷いの色があった。
 こんな異常な事態でも彼女は妖精らしい綺麗な容貌をしている。けれど私はこの時本気で彼女のことを少し怖いと思った。
 だけど到底逃げることはできそうにない。シルキィの腕力はか弱げな見た目からは想像し難いほど強くて、大人の男の腕力でもとても振り払えたものではなかった。彼女が人間でないことをこれほどはっきり実感したのはこれが初めてだった。
「貴方に抱いてもらえたらって、思ってるの」
 シルキィは澄んだ瞳で私を見つめたまま、淡々と言葉を紡いだ。私はとても普段の彼女からは想像できない台詞に面食らって、しばらく反応できずにいた。呆然と自分を押し倒している少女の形をしたものを、成すすべもなく見上げている。
「何も言わないなら……始めてしまってもいいのかしら。どの道、もう決めているの。だから……」
 ゆっくりと言ったシルキィは、悲しげに瞬いた。そして彼女は目を閉じるといつも着ている絹の服に手をかけ、ゆっくりと肌から引き剥がしていく。布の覆いが降りると、白く頼りなげなふくらみが、細い腰が露になり……
 しかし脱衣行為は途中で中断された。これほど大胆な行動を取りながら、唐突に動きを止めたシルキィの手は傍目から見てもはっきり分かるほど震えている。
「……やっぱり、駄目よね。こんなの」
 シルキィは私にかけていた力を徐々に緩めていった。曖昧に笑うシルキィの瞳に、涙の粒が光った。
 自由に動けるようになった私はようやく身体を起こすと、訳を尋ねた。彼女は乱れた服を元に戻すことすら思い至らない様子で、力なく首を振った。
「分かっていたわ。いくら親しく話してはいても、私は妖精。貴方はごく普通の、当たり前の生を生きる人間。貴方が私に、こんなことを望むわけがないのは……わざわざ試してみなくたって、分かっていたはずなのよ。それなのに私は」
 シルキィは途中で切って小さくしゃくりあげる。その間にも瞳から、とめどなく大粒の涙がこぼれ落ちていった。
「怖くて、怖くて仕方がないの。いつか……いつか貴方が屋敷に来なくなる日がきっと来る。本当に二度と会えなくなる日が来てしまう。それは自然なことで、私は止めることなどできない。止める資格なんて露ほどもないのに」
 そこまで言って、シルキィは一瞬何を思い出したのか目に見えて分かるほど青ざめた。その様子があまりに痛ましくて、私は彼女の頬へと手を伸ばし、そっとなでた。シルキィは突然触れられて驚いたようだったが、それで幾分か落ち着いたようでもあった。
「貴方の全部なんて望まない、せめて一部だけ……一部だけでも。人と妖精が子を成すことは、それ自体は良くあること。私にそれが可能かは分からないのだけれど、でも、やってみる価値はあるんじゃないかしら? って」
 シルキィは自分の頬に寄せられた手を、一瞬きつく握って、自嘲するように目を伏せて笑った。
「だけど私のような人でない存在には……妖精……いいえ、堕落した魔物には、そんなことはあまりにおこがましい願いだったのだと、こんな馬鹿なことを試みてやっと気付いたわ」
 差し出された彼女の右手には、鍵束の輪がしっかりと握られている。どれかがこの部屋の鍵なのであろう。私はそれをじっと見つめながら、考えた。
 これは、何か巧妙な罠なのだろうか。
 あるいはそうなのかもしれない。しかししおらしくその場にうつむいているシルキィを見ているととてもそんな風に疑う気になどなれなかった。
 果たしてこんな状態の彼女を置いて部屋を出ていくなどできるものだろうか。少なくとも私は先程彼女に対して一瞬でも恐怖心を持ってしまったことを深く後悔していた。不用意に傷つけてしまったシルキィの心を慰めてやりたいと心から願った。
 そしてそのためには今何をするべきなのかということも、当然のように理解している。
 妖精にたぶらかされて酷い目にあった人間の話など、数えきれないほどある。私もそのような愚かな例の一つに加わるだけなのかもしれない。
 しかしそれでも、彼女の想いを受け入れてやりたいという気持ちが自ずと沸き上がった。
 私はその手を押し返して、むき出しになったままの彼女の肩を抱き寄せた。シルキィは一瞬びくりと肩を震わせたが、おずおずと私の胸に頭を預けてくる。
「ユーザ」
 既に脱げかけだったシルキィの服を何とか引きずり下ろして、さっきとは上下逆の体勢になる。シルキィは私を見上げて、眩しそうに目を細めた。
「これで良いの? これは……私のためなの? だけど、貴方は……」
 今更になってこんなことを言っても、白々しいだけなのかもしれない。けれどどんなに近くにいても、言葉で言わなければ伝わらないものというのはある。
 私は、自分が元々シルキィのことをずっと想っていたこと、だけど中々伝える機会を見いだせなかったこと、そしてシルキィの方からもそこまで深く想われていたとは理解していなかったということを、彼女のまだ涙の跡の乾かない青い瞳を真っすぐ見つめながら伝えた。今までの優柔不断な振る舞いを詫びると、彼女は納得してくれたようで、ようやく微笑みを見せてくれた。そして少し照れくさそうに返事を返す。
「あの、あんまり乱暴には、しないでね? 私は妖精だけど、痛みを感じない訳じゃないから……」
 シルキィの白い肌に身を埋めると、ふんわりと草花に似た香りが鼻をくすぐる。香水でもつけているのだろうか。それとも妖精の匂いはこういうものなのだろうか。
「きゃっ」
 自然な流れで剥きだしになった胸のふくらみをそっとなぞると、シルキィは微かな悲鳴をあげて、口元を押さえた。ぱちぱちと瞬きしながらユーザを見つめている。
「……ううん、大丈夫。ちょっと驚いただけよ」
 先程の恐ろしい積極性には慌てたけれど、いざ始めると随分と初々しいものである。
 そんな正直な感想を漏らすと、シルキィは目をそらして言い訳のように言った。その横顔は尖った耳の先まで赤く染まっている。
「さっきの、あれでも、物凄い勇気を出したんだから。もう二度とあんなはしたない真似はしないわ」
 私の首に手をからめて、耳元で甘く囁きかけてくる。
「そんなことしなくても……少なくとも今は、ユーザは私の側にいてくれるって分かったのだし」
 束の間、普通の恋人同士のようにじゃれ合った。シルキィの身体は人の身体よりいくらか軽くて、まるで上等な布のような滑らかな手触りがある。頬に、唇に、手に、首に、胸に、足に……と愛撫を続けるうちに、どこか夢現の境にいるような不思議な感覚に満たされていった。
「こうしてユーザに触れられるの、嬉しい」
 同じ気持ちだと、簡潔に伝えて、彼女の腰を掴む。シルキィは恥じらって身じろぎしたが、抵抗はなかった。
 足を広げてやると、既に彼女の側も準備ができているようだった。
 なるべく丁寧に触れあったつもりではあったが、シルキィの中に分け入ってゆくと、彼女は痛みに顔を歪めた。
「ん……平気よ」
 シルキィは目を閉じると、彼女自身を薄ぼんやりとした膜で包む。
「筋肉を強化するのは、私のような魔力のない妖精でも割と容易なのだけれど、こうやってこうやって痛覚だけを遮断するというのはあまり楽ではないわ。体力も気力も大量に使うから、きっと後でへばっちゃうでしょうね」
 そう言いながらユーザの首に回していた手を背に移動し、きゅ、と力を込める。
「……でも、せっかくユーザと一つになれるのに、痛みなんて邪魔なだけでしょ?」
 そう言って甘えてくるシルキィは、いささか普段よりずっと幼いように感じられた。その雰囲気の変化に妙に狼狽してしまい、身体を離して無邪気に笑うシルキィを眺める。
「駄目よ。もっとちゃんと、来て」
 シルキィは我儘を言う子供のように唇を尖らせて、私を元のように引き寄せる。私は誘われるままにシルキィの中へとより深く入っていった。シルキィは私の腕をぎゅっとつかみ身を寄せてくる。
「好きな人と一つになるのって、こんなに幸せなことなのね」
 心地良く包まれる感触に、徐々に火をつけられて、動き始める。始めはゆっくりと、段々と早く。
「ふ、はあ」
 シルキィは頬を染め、呼吸を荒くしていく。頭の上では、誘うように触覚がゆらゆら揺れていた。私はたゆたうそれをぼんやりと目で追っていた。
 ……触りたい。ついそんな欲望がふと首をもたげる。
 シルキィが何よりそれを嫌がるのは、分かってはいた。しかし疼く衝動を抑えきれずに、私はシルキィの触覚の片方を指でそっとつまんだ。
「はっ! はぅぁっ!?」
 甲高い悲鳴のようなものを発したシルキィは、一瞬何が起きたか分からない様子で、目をぱっちり開いたまま私を見上げていた。やがて事態を理解すると、こちらを思い切り睨んだ。
「駄目。前にも言ったじゃない。いくらユーザでもそれは駄目」
 何故駄目なのか、と問いながら、優しく、しかし執拗に触覚をさすってやる。シルキィは悩ましげにユーザを見上げ、もじもじと腰をくねらせた。
「知っててわざと聞いているの?」
 私は問いには答えずにただ肩を竦めると、何となく意地悪な考えが頭に浮かんで、そのまま触覚を愛撫しながらシルキィの中に出入りした。
「あっ!」
 シルキィは敏感に反応して、刺激から逃れようと私の手首を掴み、仰け反ろうとする。しかしこれほどがっちりと密着していて、魔法で補強されていないシルキィの本来の力で逃れられるはずもなかった。
「は、あぅ……ユーザそれは……やめて、そんなことしたら、私」
 シルキィは潤んだ眼で私を見上げて懇願する。
「前にも言ったけど、触覚は全身の感覚を問答無用で強めるの。つまり、そこ触られたままこんな、ことしてたらっ……だから、やめて」
 やめてと言われても、やめる気にはなれなかった。シルキィ自身も、どうも本気でやめてほしがっているようではない。
 シルキィは私の態度から考えを読みとったらしく、困惑を露わにした。
「もう、こんなつもりじゃなかったのに」
 私は少しの間好きなように楽しんでから、彼女の触角から手を離した。シルキィは触角を頭から垂れさがらせて、すっかり拗ねてしまっている。ちょっとやり過ぎたかな、と反省しつつ、宥めるつもりで抱きしめると、シルキィも腕をからめてくる。
 もつれ合いながら、勢いに任せて彼女を突いた。最後まで。果てるまで。
 行為を終えた後、シルキィは満足そうに、じわりと汗ばんだ私の肩に身を預けた。
 しばらくそのままでいた。部屋は物音ひとつなく、静けさの中にシルキィの息づかいが聞こえている。
「……ユーザ、貴方を愛しているわ」
 シルキィは掠れた声でぽつりと呟く。まるで私に言ったのではなく、自分自身に言い聞かせるような調子で。
「昨日、悪い夢を見たの」
 暗い声音は、不思議と良く響いた。私はシルキィに手を伸ばしかけたが、何故かこの時彼女に触れるのは躊躇われた。
 嫌な予感があったのだと思う。
「貴方が、この屋敷に来なくなる。今まで通り、妖精しかいない、平和だけど退屈な日常が始まる」
 シルキィは私に背を向けて独白を始める。私は、ただ聞いていることしかできなかった。
「……最初はね、本当に今まで通りだと思ったの。でもユーザが来なくなってしばらく経ってから、徐々におかしくなっていった。まず【フェアリーシード】が全部消えた。それだけなら、そんなに気には止めなかったわ。あれは元々失われたものだったから。問題はその後。いつの間にか庭の花が枯れて、丘のオークの大木も倒れて、屋敷からどんどん物が消えていって……ある日、丘、丘の、丘の上に……」
 シルキィはがたがたと震えだし、自分を守るように肩を抱いた。少し咳込み、大丈夫かと肩に手を置こうとした私の手を払いのけ、真っ青になった顔をこちらへ向けた。
「丘の上に……妖精が沢山いるの。武装した妖精……いいえあんなの妖精じゃないわ、魔物よ。どちらでも結局は同じことだけど」
 シルキィは話しながら、徐々に落ち着きを取り戻していく。そして声から感情らしい感情を取り去って、淡々と言った。
「魔物が二手に別れて戦っている。いつもは穏やかな緑の丘の上を、槍や弓矢が飛び交って。ケットが片方の、数が少ない方の軍団を指揮していて、でも、ケット、負傷していて、身体中血だらけで……」
 シルキィは私の胸に顔を埋めて、嗚咽するように言った。
「ただの悪い夢よね? ユーザ。夢だと言って頂戴」
 ただの、悪い夢。確かにそうなのだろう。現実にはそんなことは起きずに、私とシルキィはこうしてここで一緒にいるのだから。
 けれど私は思わずはっと息をのんでいた。グリーンマンの忠告がちらりと脳裏を掠めた。ざわついた思考をまとめるのに、少々時間がかかった。
 私は彼女の背を撫で、そんな恐ろしいことは現実には絶対に起きないから安心するようにと、努めて平静に伝えた。そのたった一言で、シルキィは心底ほっとした様子で、そのまま私の膝の上に倒れ込んで眠ってしまった。
 これで良かったのだろうか。良かったのだろう。例え、気休めに過ぎなかったのだとしても。
 私が彼女のための礎としてここに、これから先もずっと繋ぎとめられているのだとしても。
 私はシルキィを起こさないように注意しながらきちんとベッドに寝かせると、彼女の脱ぎ捨てられたままの衣服から鍵束を取り出し、整合するものを見つけ出し、扉を開けた。


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